2011/06
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〔おとな会・報告会〕
はい、おとな会が開かれましたよ~~~~♪
なんと今回は私がボランティアに行って帰ってきたということで、報告会というのも兼ねて開かれました! 忙しい中、みなさんアリガトー!!!('_')ノ▽"フリフリ

H23.6.20.香古庵
今回はランチタイムに集まりまして、ちょっと豪華な1600円ランチですよー! 夜なら安くても5000円は下らないと思われるお店で個室にて語りました^^

妊婦2人は順調におなかが成長しており、前回つわりの真っ只中だったKちゃんもとりあえず顔色はよくなっててアンシン(^O^) そしてAちゃんは7ヶ月の赤ちゃんを連れて登場~。初対面でしたがご機嫌におとなの中で過ごしていましたよ^^

ま、一通りボランティアの説明をしまして皆さんにねぎらってもらいました★ しかし食べなきゃいけないし、他の人の近況も聞かなくちゃいけないし、赤ちゃんにおっぱいはあげなきゃいけない(アタシじゃないけど^^)、忙しいランチとなりました! ので、2人の妊婦ちゃんの赤ちゃんの名前検討までは至りませんでしたなぁ~。

今度は生まれる直前だったっけ??直後だっけ?(^_^;) またの開催を約束してお開きとなりました~。
おとなだけが集まる「オトナ会」ですが、いつか全員の子供付きで集まると面白いかもなー。すごい人数だ!
アタシだけいないので、人形でも連れて行くべきか??????┌|゜□゜;|┐

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〔災害ボランティア体験記⑧~ボランティア仲間~〕
私は今回あるNGO団体のボランティアに参加した(HPはこちら)。他の活動と比較はできないが、非常に感心したし感謝した。説明会の開催や現地までのバスの手配等はもちろんだが、特に現地での調整力。社会福祉協議会が災害ボランティアセンターというのを作っているのでそれにしたがっているのだろうが、今までのボランティアがきちんと活動してきたからこそ地元からも信用されたのだろうから。その指揮と調整をしている残留ボランティアの皆さんには頭が下がる。私たちを指揮してくれたKさん(34)は第5陣で来てそのまま活動し続けるボランティアだった。ピースボートの職員ではない。Kさんは「最後までいる」と言っていた。

また第10陣バス2号車34名は、同じ宿で寝起きとご飯を共にした仲間だったが、非常に気持ちいい人ばかりだった。特に女性8名とは寝る前などたくさんおしゃべりをして笑って過ごせた。60歳前後の女大先輩が3名もいて、アラフォーとしては大変心強かった。20代とアラサーの女子3人も台風の時UNOに混ぜてくれたり楽しく話ができた。大阪のDちゃんとはいつも一緒に行動し、関西の厳しい突っ込みもされながら仲良く過ごした。同じ班のおじ様たちからは食事時にお湯を沸かしてもらったりおかずをもらったりしてDちゃんと2人優遇されたし、活動時ももちろん力仕事を助けてもらった。33歳のKくんは途中からトラック部隊に貸し出しとなった(力仕事なので)が、それまで土嚢袋の縛り方を教えてくれたりしたし、食事時はコーヒーを入れてくれた(入れさせたとも言う)。

他の班の男性陣もいい人ばかりだった。全員と話したわけではないが、台風で活動できない時に自己紹介を全員でしたし、最終日の夜も感想を全員言ったので、なんとなくだが連帯感というか仲間意識というかそういうのが(私は)生まれた。最終日の感想を言った中で、特に60代のほかの班のおじさまが「今回参加して思ったのは、若者の力はすばらしいということです。」と言ったことに非常に感動してしまった。20代(10代もいたのかな?)の大学生から30代40代の男性陣はやはり元気で行動力やあり、60代のおじ様方は地道にもくもくと力仕事をこなすという、いい連携だなぁと勝手に思ってしまった。

34名のうち、4人が引き続きボランティアをするため残留した。他にも2回目・3回目の参加という人もいた。勇気を出して初参加もえらいが、継続して参加する人は本当にすごいなと思った。
〔災害ボランティア体験記⑦~地元の方々との交流~〕
ボランティア作業を終えた日、商店街の皆さんが一店舗に集まって小物産展を開いてくださった。復興に大変な時なのに、無事だった商品やお惣菜・災害の写真などを持ち寄って私達のために時間を割いてくださっていた。ボランティアの多くは、地元で買い物することで義援金がわりとしたい考えの人が多くいたが、まだお店オープンに至っていないところが多かったので、みんな喜んで買い物をした。
ちなみに私はギャルが持つような携帯ミラー(鏡を持って行ってなく、どうしてもの時は部屋の女子に借りていた。しかし最終日に買うのもどうかと自分でも思った。)、クマのタオル3枚セット、地元美術館のお菓子、惣菜(朝食用)、それからこの物産展ではなかったが復興Tシャツと復興シールも買った。ちなみに携帯ミラーを買ったら布バックとマスコットとキーカバーがオマケでもらえたv(^o^")v  本当はもっと買いたかったが、なぜか帰りの荷物も(重さは軽くなったが)いっぱいだったのでセーブした。

次の日の朝、帰りのバスが来たのでバス停に向かった所、商店街の皆さんがお見送りに出てくださっていた。恒例のことと知っていたが嬉しかった。前の日にみんなで書いた寄せ書きを渡し、お互いいっぱい手を振ってお別れをした。石巻は魚の美味しい所、復興したあかつきには泊まらせていただいた料亭に食べに来たいねとボランティア仲間で話した。


***

また私は抜け駆けして美容院に行った日、髪を乾かしてもらいながらかわいらしい美容師さんとお話をした。私が山陰からボランティアに来たと話した所、自分の苗字と同じ町が山陰にあるのでいつか行ってみたいと思っていると話してくれた。
この美容院は4月の早いうちからオープンしているそうだ。同じ町でも川や海に近い所とそうでない所で、随分被害状況がちがうなぁと感じた(この美容院は川から少し離れている。といっても歩いて数分の違いだけだが)。

それと、バスで連れて行ってくれた運転手さんからはうれしい言葉をいただいた。
「全国からこんなにひっきりなしにボランティアに来てくれてることが本当にありがたいよー。自分が同じ立場だったらボランティアに行くかっていえば、わからないもんねー。阪神淡路(大震災)の時だって正直、人ごとだったもんね。そう思うと本当に頭が下がるよ。食べ物も全部持ってきて、風呂にも入らないでさー。」そうか、実際の活動はたいしたことをできていなくても(できた方が無論いいに決まっているが)、なるべく現地に迷惑がかからないように応援に来たよという行動だけでもいいのかと、ちょっとだけ誇らしく感じた。
〔災害ボランティア体験記⑥~女川町、石巻市南浜町~〕
台風の接近で2日目・3日目の活動はできなかった(これは地元社会福祉協議会の決定。ボランティア活動は社会福祉協議会からの依頼で行っている)。そこでP.Bはバスと運転手さんを手配してくれて、津波で壊滅状態の女川町(おながわちょう)へ連れて行ってくれた。

運転手さんは女川町の方で、運転しながらここはこうだったと説明してくれた。もうすぐ女川町の海岸だという地点でバスを停め、「ここ。ここが俺の家だったんだ」と。
「今まで何回も津波警報があったが、その度に50センチ、大きくて1メートルだった。自分のじいさんも、ここまでは津波は来ないと言ってたんだよなぁ。狼少年の話じゃないけどさ。うちの家族は幸いにも全員助かったけど、近所のじいさんやばあさんは、死んじゃったもんな」。

そこから坂道を下り、女川町の壊滅的被害が現れてきた。坂を降りきらず途中をまがり、大きな建物の駐車場に入りバスは停まった。そこは総合病院で、駐車場は高台のようになっていた。駐車場から女川の漁港や海岸線が一望できた。頑丈なコンクリートの建物だけが残り、あとは瓦礫だけ。
女川町1
運転手さんも降りて話をしてくれた。「この病院にうちの女房が勤めてたんだけど、ここの1階も浸水したんだって。女房、泳いで患者さんを助けたんだ。」

しばらく話を聞いて、今度は駅のある方へ移動した。「こっちはねえ、住宅が沢山会ったんだけど、ほら、道がカーブしてて海岸が見えないでしょう。それで逃げ遅れた人が多かったんだよね」。
石巻市7

住宅街といわれてもピンと来ない。なにもない。駅だといわれればそうかなと思えるくらいにしか分からない。電車が奥の小高い墓地にまで流されたということも放映されたらしい。もうその電車はなかったが、もう1両がまだ横転したままだった。

仮設住宅を建てる場所がないそうだ。数十軒はもう建っているそうだが、数十軒では話にならない。結局石巻市に土地を借りて作るそうだ。

***

帰りには石巻市でも特に被害の大きかった南浜町を通ってもらった。あの、9日ぶりにおばあちゃんとお孫さんが救出された地区だ。
南浜町
この風景が延々と続いていた。道は見事に整備されていた。だが、私達が活動した商店街とは明らかに様子が違っていた。商店街は歩き出したが、ここは時間が止まったままだった。

ここを再生させようと腰を上げるのには、計り知れないほどの勇気が必要だと感じた。どこから、何から手をつけたらいいのか、私にはわからなかった。



〔新入り〕
先週、地元で犬猫譲渡会があり、かねてかららっちゃんに同居猫をと考えていたので行って来ました!

らっちゃんが黒っぽい猫なので今度は白っぽいのがいいなーと思っていた所、3兄妹子猫の1匹が白で薄いグレーのぶち入りちゃんで、気に入ってしまいました。

ただし、らっちゃんと同居がうまくいくか不安だったので、お試し飼いということにさせてもらい、今日で1週間経ちました!
DSC01641.jpg
かわいいでしょ~~~~
1ヵ月半くらいの女の子です^^ 学校の校庭に3匹の子猫が箱に入れられて捨てられていたそうです。飼われていた猫らしくとても人懐っこいです。そして物怖じしないッ!

一方らっちゃんはといえば・・・。 まぁ私の育て方がいけなかったんでしょうが、めっちゃ小心者で、子猫でさえも怖くて触れませんでした。ただ、拒否するような態度や鳴き声はしなかったので様子をみていました。

子猫は無邪気にらっちゃんにじゃれついていくのですが、怖くて逃げていました。子猫が寝ているときに触りに行くのですが、どうしても触れませんッ! そして反対に子猫がらっちゃんの寝ている所にがばーっと突撃したらパンチしたり逃げたり!
そしてやっと触れるようになったら、どうやって接したらいいかわからず、とりあえずおしりを舐めようとするのですが、子猫パンチされると噛んでみたり(まぁ本気噛みではないにしろ、こっちは冷や汗もんですよ)。

でもやっと4日目くらいからいい感じになってきて、ついには一緒に寝れるようになりました!
DSC01649.jpg
ということで、この子を我が家の新入りとしました!
名前は『メイ』ちゃんです★
非常におてんばで気が強く、もうひと月もすればらっちゃんはケンカに負けると私は思ってます^^

ということで、メイちゃんをよろしくね♪

〔災害ボランティア体験記⑤~依頼者宅の片付け・泥だし~〕
6日目は、今回私達バス2号車34名と私達を世話してくれている居残りボランティア数名とが宿泊させてもらっている料亭の1階部分の掃除だった。1名は専任で消毒としてまかれた石灰の掃除で、残りのものは食器庫の整理だった。ワイヤーネットの大きな棚が傾いたままで、その下は落ちてきた食器と泥とで手付かずだった。女将さんはとにかくまずワイヤー棚を出してとなりの部屋にそれを置き、そこへ食器をある程度整理しておいていってほしいとのことだった。食器の洗浄は後でまとめてやるからとのことだった。

下にぐちゃぐちゃになっている皿や泥は相当あり、これらを片付けないと棚が出ない状況(ヘタに出そうとすると奥にたまっている食器が崩れてくる可能性あり)だったが、4名いるのでなんとかなるかなと最初は思った。が、もちろん割れている皿もあり、さらに少しずつ整理していくと思った以上にヘドロがまだ溜まっていた。ヘドロを土嚢袋に入れて何袋か出してまた食器を発掘していく(発掘作業に似ている!食器庫は薄暗くまたもやヘッドライトの出番あり。)作業が続いた。ヘドロはご丁寧にも皿一枚一枚にたんまり溜まっているので、水洗いはできないがこそぎ落として種類ごとに整理していった。この日はとうとう棚が出せなかった。

7日目、最終日もこの料亭をやらせてもらった。5名がかりで取り組んだが、午前中もまだ棚が出なかった。私はくやしくて申し訳なくて、昼ごはんが終わってそろそろ取り掛かるかといった時に「あー、棚をどうしても出したいなー」と言ったら、Hさんが「よし。出そう」と言ってくれた。「え、出せそうですか?」と言ったら「大分下の食器も整理したので、もう大丈夫。下の食器を整理してからと思ってたが、女将さんの要望は棚を出すことだったもんな。」と。午後一番で男性陣に棚を出してもらい、後は時間が来るまでひたすら泥だしと食器の発掘を行った。が、やはり食器庫の完全整理とはいかず、タイムオーバーとなった。女将さんも2日間あれば整理できるだろうと思っていたのか、ここまででしたと言った時「・・・まだまだ泥があったんですねー・・」と言われた。でも棚が出せたことは喜んでくれた。
  
そして私達の班はこの日洗い場担当となっていたので、早めに洗い場へ向かった。洗い場とは、作業で汚れた器具やヤッケについた泥を高圧洗浄器で洗う場所で、毎日交代で行っていた。結構これが気持ちよい(!)のだが、全班の器具を洗い終わり、溜まった水をワイパーで溝に落とすまでやらなければならず、私はここで日焼けしたものと思われる。(1時間以上すっぴんで作業!)。またこの日は暑かったので、バケツにくんだ水で顔を洗うもの、髪の毛をあらうものが続出!私も初めて石鹸で顔を洗った。肌がぼこぼこしていてびっくりした。

こうしてボランティアとしての作業はすべて終わった。

(ボランティア体験記はまだまだ続きます(*^.^*))
〔災害ボランティア体験記④~依頼者宅の片付け・泥だし~〕
初日は午後から各班に分かれて活動を行った。事前にどんな作業かボランティアをさい配する人(これまたボランティア)から説明を受け、それに合った道具をネコ車に乗せていく。

私達の班は商店街のお肉屋さん。すでに何回かボランティアが入っているらしく、道路側の窓ガラスに『ボランティアさんありがとう。また来てね!』という張り紙が。中も泥などはほとんどなく、お店再開に向けて準備中といった感じだった。お肉を入れる冷蔵ショーケースの掃除を頼まれたのでよく見ると、下のほうはまだ汚れていたり、ガラスが汚れで曇っていたりした。結構頑固な汚れで内側も当然汚水が入ってきているので、取るのに苦労する。
お店の奥さんは業者さん(多分仕入れ業者さん)と、常温でも売れる商品について打ち合わせをしておられた。来週かそれ以降にお店再開するらしい。冷蔵ショーケースは割れずに残ったがモーターがやられたので交換しないといけないぞうだ。作業終了時に、津波直後の写真を見せていただいた。2M浸水したそうだ。

2日目・3日目は台風のため活動ができず、女川町に連れて行ってもらったり、津波の写真や映像を見せてもらったりした。

そして4日目は快晴、町のお医者さん宅(隣が医院)での活動となった。こちらも1階はすべて水につかっており、床板はほとんど剥がされていた。ここもすでにボランティアが入っていた様子で、泥まみれの家財道具が一部屋にまとまっていた。まず私達は床下に紛れ込んだ砂を土嚢袋に入れて運び出すという作業をした。一見するともう取り去った感じだが、実際掘ってみると海の砂のような泥がまだ多く残っていた。各部屋に分かれてまず砂を掘り起こし、ある程度掘ったら2人1組で砂をスコップですくって入れる人と袋に受ける人に分かれて作業を行った。が、私は家の中ほどの物入れかトイレかと思われる暗い一角に砂が多くたまっているのを発見し、一人しか入れないためヘッドライトを点けそこに篭って作業をした。狭いゆえ無理な姿勢で砂(その中にヘドロもあり)を掘ったせいで、腰に無理が来た。掘った砂は他の人に袋に入れてもらい、最後にみんなでバケツリレーで家の外に土嚢袋を出す作業をした。またこれが弱った腰にさらにダメージを残した。もうこれ以上するとギックリだなと思い、最後は袋の結び口の点検(!)をした。

5日目もこのお宅で、今度は家財道具と網戸を洗えるものは洗ったり拭いたりの作業だった。この日も泥だし作業だったらまずいなと思っていたので、ほっとした。
家財道具は(お医者さん宅だけに)高そうなものばかりで、洗うのに緊張した。その後、家の中のまたもやくらい場所の拭き掃除となり、ヘッドライトを活用して下駄箱を拭いた。ヘドロというのはかなり頑固で、拭いても拭いてもしばらくするとまた泥の跡が浮き出てくるやっかいなものだった。暗い場所と思っていた所は実は玄関で、玄関の戸は多分津波で押し破られたのだろう、ベニヤ板が応急で打ちつけられていて暗かったのだと後で気が付いた。このお宅で今回依頼されたことは一応すべてクリアして終わりとなった。

〔災害ボランティア体験記③~東京出発・現地着~〕
集合は東京・新宿のとある公園。夜9時。バスで翌朝現地へ到着予定だ。大阪の説明会参加者以外からもぞくぞくと参加者が集まってくる。バスは3台。同じバスに乗った人々が今回の大きな仲間だということは後で実感した。

この時に初めて自分達の宿と役割(泥出し中心の「クリーン」・炊き出しの「キッチン」・物資管理の「倉庫」・避難所手伝いの「避難所」の役割に分かれていた)を知った。炊き出しだろうと思っていたが、私達の班は「クリーン」だった。というか、私達のバスは全員「クリーン」で、同じ宿(被災者のお店の2階・畳の大部屋)だった。

長い休憩を3回ほど取りながら(時間調整のため。ボランティアは入れ替えのため早く着きすぎても×)朝8時半頃、宮城県のP・B拠点地に着いた。道中、明るくなっても被災した風景はあまりみえなかった。
3台分のバスの参加者と、他のボランティア団体参加者と合流しおおまかな説明を受け、再度バスに乗って宿へと向かった。
宿を提供してくださっているその場所は商店街の一画で川にもほど近い場所。テレビで見た風景が、現実に目の前にあった。
石巻市3
石巻市1
が、道は泥などなく、随分片付いているなという印象を受けた。
私達は再度細かい説明を受け、荷物を2階に運び、荷を解き、午後の作業に向けて昼食を取った。

宿として使わせてもらっているのは料亭の2階大広間。真ん中を仕切りで仕切って男女別の部屋として使用。風呂・トイレ・手洗い場なし。電気は点くが充電など禁止。トイレは歩いて数分のP・Bクリーンの拠点地にある。夜のみすぐ近くの自衛隊が運営する風呂のトイレを借りる。自衛隊風呂は当ボランティアは使用禁止(自衛隊さんは使ってくださいと言ってくださるけど、あくまで被災者のためのお風呂なので)。

〔災害ボランティア体験記②~準備品と荷物~〕
準備品は簡単に言うと、7日間分の食料と着る物。特殊なものとして寝袋・マット・作業用防水ヤッケ・長靴・防塵マスク・ヘッドライト。

なにせ7日間分の着る物がまずやっかいだった。暑いのか寒いのか微妙な時期だったこともある。洗濯は一切出来ない。作業する時と寝る時と分けなくてはいけないし。タオルも7枚。それと食料。朝昼晩7日分は、思った以上に量が多く、また火を使うといってもレトルトを茹でるくらいしかできないのでメニューも限られる。昼食は出先で摂るので常温ですぐ食べれるもの・・・カロリーメイトしか思いつかなかった。おまけに水を2リットル持ってくることを義務付けられていた。これは非常用で、余震で水道が使えなくなった時のためと説明された。重い。その他薬やら電池やら(携帯充電用。電池式充電器も必須)。私は鍋を持っていくことになっていたし、東京で一泊するのでその分着替えも余計に必要だった。

そのほかの準備として、ボランティア保険(災害用)の加入と保険証のコピー。私の場合は飛行機の予約とバスの予約とホテルの予約も必要だった(集合と解散場所は東京)。羽田からこの大荷物を運ぶのを少しでも減らすために、リムジンバスを予約した。ラッキーなことに、降りる場所が新宿駅からヒルトンホテルに変更してもらえた(というかそういう選択肢があるのを知らなかった)。これでほとんど重い荷物を長距離運ばなくて済んだ。

荷物の量は。
ゴロゴロのスーツケース1個(海外旅行で言えば5泊分くらいの大きさかなぁ)とスーツケースの取っ手(伸ばせるアレ)に通せるバッグ(3泊分くらい入れれそうかな)に、寝袋に、大き目のウェストポーチに、すぐに出したいもの入れ用の手提げバッグ。これを全部持って降り立ったアラフォー女子は、軽い絶望感(!?)を感じた。

ちなみに空港で荷物として預けたゴロゴロは当然のごとく『Heavy』の札が付けられていたことを付け加えておく・・・。
〔災害ボランティア体験記①~動機と参加まで~〕
災害ボランティアとして被災地に行こうと思った動機の主たるものは、『無職というフリーな立場』だったから。
震災が起こった3月はまだ仕事をしていたが、3月いっぱいで契約終了が決定していた。4月になったらボランティアに行こう、私みたいな立場(の者)が行かなくて誰が行くんだ、と思った。
でもいざ4月になったら、どのようなツテで行けばいいか全くわからなかった。個人で被災地に行くのはなるべく控えたほうが
いいという報道もあったし。そして一番役に立ちそうだと思ってボランティア登録をしたのが、自分が持っている資格の団体(日本栄養士会)で募集していたボランティア。
が、3日経っても5日経っても問い合わせが来ず。現在栄養士会員登録をしていないのが原因かとも思うが、なんとなく無駄に時間が過ぎていく気がして、というか、ボランティアにいつ頃行くのかはっきりしないと就職活動もできない気分になって、地元自治体の災害ボランティア登録をした。でも前陣の様子をネットで見る限り力仕事だったので、こっちは実の所あまり乗り気ではなかった。女子が行ってもたいして役に立てないだろうなと。

それでネットでNPO・NGOが募集するボランティアを検索して出てきたのが今回参加したとある団体(以後P・Bと表記)だった。
HPで、ボランティア参加するにあたってさまざまな条件が示してあったのだが、そのひとつが「事前説明会に参加すること」だった。それまでは東京でしか説明会がなかったらしいが、GW後ボランティアが激減したのを受けて名古屋・大阪・福岡でも行うことを知って、大阪のおばを見舞うついでに説明会に参加してみようと電話で予約した。
この時点では参加する気持ちは半分くらいだった。とにかく説明を聞かないと判断できないし、やはり力仕事が主だったらやめておこうと。
で、説明会。P・B自体の説明と今までの災害ボランティア活動、そして今回の災害での今までの活動。早期から、まとまった人数を現地に送り込んでいるノウハウはすごいなと感じた。
じゃあ今回自分は参加するのか?と問うと、まだ60%くらいだった。だが、P・Bもそこはプロ級?! 迷う暇をあまり与えなかった。1週間の参加が可能な人はその後すぐに班分けをして打ち合わせするという段取りだった。不安があったので、女性の体力&腕力で役に立つのか(というか男性と一緒な活動では自分もしんどいし一緒の男性にも負担かけるしと思ったので)と質問してみた。それは考慮するし今まで沢山の女性が参加してきたので、普通の体力があれば大丈夫との答えだった。

これから帰って相談したりしても、また打ち合わせに来なければならないし。思い切って参加してみることにした。説明会参加者20数名に対し1週間参加者数11名。内、女性2名。このもう1人の女子が今回私の相棒となってくれたDちゃん(23歳)。この明るい子がいなかったらどうなっていただろうと思うくらい私には重要な人物だった。

P・Bの担当者は女性2人を同じ班とし、6名と5名の2班を瞬時に作った。後で考えるとこの班分けも絶妙だったなと感じる。

さて班である。これから作業はもちろん朝昼晩の食事も一緒にする仲間。60歳前後のおじさま3名と30歳前後のおにいさん1名、23歳のDちゃんとアラフォーのあたくし計6名。食事用のカセットコンロや鍋を持ってくる担当を決めて携帯番号とアドレスをリーダーに渡して解散した。

そして集合日まで準備を進めて当日を迎えた。
〔帰ってきました~!〕
日曜日に帰って参りました~。
この体験は私にとってポイントとなると思いますので、記録として詳しくここに残そうと思っています。
それと周りの方々が予想以上に(ボランティアに行ったことを)誉めてくださるので、レポートを書いて読んでもらおうかと思っているので、そっちを先に作ってその内容をここに記録しとこうと思います。

ので、もう少しお待ちくださいね。

ちなみに私は少々腰を痛めた他は元気で戻ってこれました。ありがとうございました<(_ _)>
プロフィール

マッキー55

Author:マッキー55
山陰(鳥取・島根)をうろちょろする山陰女です!
ちょっとずつ山陰を紹介できたらなーと思います♪
それとネコを飼い始めたのでネコネタが多くなってます。

このブサイクなくまのぬいぐるみは私の手作りなんざんす。
今ではネコの獲物と化し、首元を中心に全身ずたずたです・・・。

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